№39広島を訪れて~
【事務局長のつぶやき】
(写真1)甥の結婚式でもらった花束、ドライフラワーのように見えますが、実は生花です!くすんだような色合いのバラを初めて見たので驚きました。
昨日5日は、朝から寒く午後からとうとう雪が降り出しました。ガラス越に見る雪景色は好きですが、その昔、春先の北海道小樽の坂道で転倒して、しこたま腰を強打した経験から今でも凍った雪道を歩くのは恐いです。😓皆様も凍った雪道には十分に気を付けて下さいね。(写真2)雪だるまが作れるほど雪は積もらず、ほっとしました!
2月4日に行われる甥の結婚式に出席のため、前日の3日正午に広島入りをしました。前日の半日間を利用した目的は①夫が昭和46年4月~48年3月まで2年間の大学院時代を過ごした下宿先を訪ねること。②2019年4月にリニューアルされた原爆資料館を見学すること。
①の目的については、50年以上の年月が経過しているので、当然周辺も様変わりしていましたが、それでも№1市電の「御幸橋駅」を下車したら足が覚えていたのか?自然と下宿先のあった場所に辿り着きました。
しかし、該当する家がない!(当然と言えば当然の事)途方に暮れた夫を見かねて、ここは人見知りをしない口達者な私の出番とばかりに、年配が住んでいそうな古い家に狙いをつけました。
1軒目の玄関チャイムを鳴らす。私達が横浜から来た訳を説明して漠然とヒントをもらうが、イマイチ分らない。😆→2軒目で町内会長さんならご存じかもと有力な情報をもらう。😊→3軒目に町内会長さん宅へ、ここで平成の頃までに遡った尋ね人の情報を得ることができました。😓
当時、下宿先のお隣りの家には下宿を営む奥さんの妹さん家族が住んでいました。夫は、この家に住む長女(当時高校2年生)に恋心を抱いて両想いだったらしいのですが、結局、夫の裏切りによりハッピーエンドにはなりませんでした。50年以上経った今も夫の心の中に申し訳ないことをしたという苦い思い出が、澱のように残っていたので今回、思い切って消息を訪ねてみようと私が提案をしました。
下宿先の奥さんは、当時から若くして未亡人でしたが、晩年も再婚することなく、女としての幸せを掴めず50~60歳の頃に自死でお亡くなりになっていました。想い合っていた彼女の消息は、お寺へ嫁いだが離婚をしてその後、子供を母親に預けて東京で再婚をしていた。町内会長さんご夫妻からこのような情報を得ることができましたが、夫の心情としては、下宿先の奥さんも、彼女も幸せになっていて欲しいと長い間、願っていたのに関わらず、実は幸せではなかったと判明をして私達は愕然となってしまいました。
改めて横浜に住む聴覚障害者の私達はバス、電車、地下鉄、何に乗車してもバリアフリー化されているので困ることはないと有難く感謝をしました。
(写真4)次なる目的地、原爆資料館に到着する頃、けっこうな雨が降り出してきたので、私にはこの雨が原爆犠牲者の涙のように感じました。この原爆ドームは当初、記念物として残すという考え方と危険建造物で被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという二つの考え方があったそうです。しかし、市街地が復興していき被爆建造物が姿を消していく中で保存を求める声が高まり、保存工事の募金を行って今に被爆当時の姿を伝えています。
「何故、アメリカは原爆投下先を広島と長崎にしたのか?」学校で習ったかもしれないけど長い間、知らなくて疑問に思っていました。3度目の資料館訪問となった今回、じっくりと見学することによりやっと疑問が解けてきました。
ドイツで原爆の開発が進められているのではないかと恐れた科学者の意見をきっかけに第二次世界大戦が始まった1939年(昭和14年)には、もうアメリカは研究を開始していました。1942年には膨大な経費を使って原爆製造計画に着手し1945年7月には原爆投下実験をテニアン島で成功させていたのです。
投下先は都市の規模や爆風で効果的に損害を与えることができる地形などの基準から、残念ながら広島と長崎が選ばれてしまいました。
昭和20年7月、アメリカのトールマン大統領はドイツのポツダムでイギリス、ソ連の首脳と会談会期中に原爆投下実験の成功を知り、7月25日に日本へ即刻、原爆投下命令を下しています。日本へ無条件降伏を求める「ポツダム宣言」には日本が降状するために重要と考える天皇制存続の保証が記されていなかった。又、原爆の存在や使用を暗示する言葉もなかったので日本が直ぐに受け入れなかったという事情も有りアメリカに同年8月6日、原爆を投下させてしまったと分かりました。
(写真5)平和公園内に寄贈された千羽鶴を保管しているコーナーがあります。この作品に目が釘付けになったので撮ってきました。
原子爆弾の脅威は、核分裂が極めて短時間に連続して起こると、膨大なエネルギーが熱線、爆風、放射線として放出され、この現象を用いて兵器として開発されたものが原爆です。
広島、長崎に投下された原爆は熱線、爆風、放射線が複雑に作用して大きな被害をもたらしました。原爆の特徴は、通常の爆弾では生じない大量の放射線が放出され人体に深刻な障害を及ぼすことです。
市内のほぼ全域が被害を受けたくさんの人たちが手の施しようがない、酷い火傷や傷を負い亡くなりました。又、放射線は建物を突き抜け人体の奥深くまで入り深刻な影響を及ぼしました。更に放射線はその後、何年もたって白血病や癌などの症状が現れ長期にわたって人々を苦しめたのです。
原爆は空中で爆発し高圧の空気の壁といえる衝撃波が発生しました。爆心地から500m離れた所では1平方メートル当たり約11tに達したと考えられています。吹き飛ばされて失神した人、負傷した人、倒壊した建物の下敷きになって圧死したした人が相次ぎました。
爆心地から2Kmの地域の木造家屋は殆んど倒壊、鉄筋コンクリートの建物は倒壊は間逃れても窓が全て吹き飛ばされ内部にいた人たちの身体に無数にガラス片が突き刺さりました。
資料館では、上記の惨状を伝える写真や絵、遺品などが沢山展示をされています。2時間ほどかけてゆっくりと見て回りましたが、悲惨な状況だったと理解する内に胸が苦しく押し潰されて息をするのも辛くなってきました。戦後の高度成長期に生まれ平和を享受してきた私ですが、改めて「戦争という悪」を考えるきっかけになりました。皆様も広島へ行く機会がありましたら是非、リニューアルされた資料館へ足をお運び下さい。
(写真6)夕食に食べた広島名物お好み焼き、地元民の口コミ3位だったお店に行きました。小さい鉄板にのせられて運ばれてきた!お好み焼きのネーミングがユニークでラブレター、電光石火、人にやさしく、夢、などと名付けられていました。
(写真7)翌日は、気分を新たにして甥の結婚式に出席、義父の7回忌時以来、6年ぶりに義弟家族と再会をしました。頼りない雰囲気だった甥が、看護師としてしっかりとした青年に成長し、同僚の素敵な女性を伴侶として選びとても嬉しく思いました。神父さんは外国人・・ほぼ英語で話されていたのでちんぷんかんぷん💦
今回のブログは、浜難聴絡みではなく、個人的な長い旅行記となりました。最後までお目通しいただき、どうもありがとうございました。
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